こんにちは、kopi rumah主宰 食卓コンサルタントのみつはしさなこです。
前回に引き続き、食事や料理について普段感じていることです。
料理がしんどい
こう感じてしまうことありませんか?
例えば家のことや仕事で疲れているときや、朝食作って、昼食作って、ちょっとしたらまた夕食が控えている・・・ような食事の支度が千本ノックのように(笑)感じてしまうときなどなど。
もちろん私も料理に主体的に向き合えないときがあります。その時その時で事情はありますし、その事情も人によってバラバラです。でも、私たちが料理がしんどくなってしまう理由や背景に共通したものがあるのでは、と私が感じていることを書いてみます。
料理がしんどい理由①:食事は一汁三菜であるべき
私たちは幼いころから学校などで「食事は一汁三菜を基本とする」というくだりの言葉を目にしてきました。
一汁三菜とは、汁物1品とおかず3品を指し、一般的には、肉魚を中心とした主菜1品、野菜きのこを中心とした副菜2品、味噌汁など汁物1品というイメージです。学校給食もまさに一汁三菜を表しています。こうして私たちは子供の頃から一汁三菜の食事に触れ、自然と食事=一汁三菜という構図が出来上がっているように思います。
料理がしんどい理由②:無意識に抱いているかもしれない女性像
多くの女性ならば、これまでに「女性は料理ができなければならない」「食事は毎日作るべき」「子供には手料理を食べさせるべき」と感じていたことがあるのではないでしょうか。
誰かから直接そう言われたわけではなくても、子供の頃から観ていたテレビアニメや漫画に出てくる母親たちは大抵家にいて(ほぼ専業主婦設定だったと思います)、主人公はじめ子供たちに手料理を振る舞っている姿を見てきた私たちは、知らず知らずのうちに漫画で見るような母親=あるべき女性の姿というイメージを持っているかもしれません。
この二つの「○○するべき」が合わさった結果
この二つの「べき」が組み合わさると、
「料理は毎日違う一汁三菜料理を全て手作りするべき」
こんな理想という名の固定観念ができあがります。自分で書いておいてなかなかヘビーワード・・・
もちろん自分自身が楽しく料理をされている方は全く問題ないのですが、そうでない(けれども固定観念はある)方には、毎日静かなプレッシャーと戦い、それに応えられないときの罪悪感や自己否定感から料理がしんどいという気持ちに繋がっているのかもしれません。
「○○するべき」ではなく「○○したい」という心の声を聞く
「○○するべき」というのはいわば外部からの言葉の力です。
それに対して「○○したい」は内面からくる自分の言葉の力。「自分はどうしたいのか」、自分の内面にもっと耳を傾け対処してあげると心は軽くはず。
「料理をしたくない」というのが心の声なら、じゃあどうすれば自分の心が満足するのかを考えます。
外食したいのか、誰かに頼みたいのか、買ってきたものを家で食べたいのか、家にあるストックで火や包丁を使わずに作れればいいのか・・・
これはまわりの環境との調整が必要ですが、自分のNOという気持ちを汲み取ってあげてほしいのです。もちろん 罪悪感や自己否定感を持つ必要は一切なし。やりたい、できる、と思ったときにやればいいのです。
だいぶ主観的ですが、料理ができる人を賞賛したり、そうでない人を批判するものではありません。もちろん料理をしない人からも賛否両論はあると思います(そうは言ったってムリ、のような)。
ただモヤモヤした気分で毎日料理しながら過ごしている人がいたら、モヤモヤがくる(憶測ながら)背景と心のあり方について、思うところを書きました。“料理がしんどい”と検索してる人がいたら、引っかかってくれるといいな。